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「ウェーバー 近代合理主義と対決する社会学の始祖」

『シリーズStart Line2 子犬に語る社会学・入門』

洋泉社2003.10. pp.125-126.

橋本努

 

 

(Max Weber 1864-1920)

 

 

かつて哲学者ヤスパースはウェーバーのことを、「われわれの時代における躓(つまず)きの、もっとも豊かな、もっとも深い経験者」であると語ったことがある。わずか56歳でこの世を去ったウェーバーが生前に公刊した著作は多くない。にもかかわらずそのカリスマ的な発言力と行動力とから、ウェーバーは一つの生き方のモデルとして、その当時も現在も人々を魅了しつづけている。例えば最も広く読まれている『職業としての学問』および『職業としての政治』(共に岩波文庫)を読むと、その理由が分かるだろう。この二冊は講演を起こしたものであるが、人生いかに生きるべきかという大問題に応じた珠玉の小品だ。「社会は堪えがたい矛盾に満ちているけれども、責任意識と覚めた理性を持って逞しく生きろよ」――ウェーバーはこう私たちに訴えかけてくる。

幼い頃からひ弱だったウェーバーは、しかし大学時代には、精力的に諸学を勉強するかたわら、毎朝一時間フェンシングの稽古をしたり、学生組合仲間との付き合いでは決闘をして頬に傷を負ったりと、キャンパス・ライフを大いに楽しんでいた。1886年には司法官試補の試験に合格、1889年に論文「中世商事会社の歴史」で法学博士号を取得、1891年に教授資格論文「ローマ農業史」を提出すると、1894年にわずか30歳でフライブルク大学教授に就任する。翌年行った就任演説「国民国家と経済政策」はとくに有名で、ウェーバーは自ら手がけた調査を元に、ポーランドからの季節労働者を制限することがドイツ国民の気高さを示す国策としてふさわしい、と主張している。

 1896年にハイデルベルク大学に移ると、ウェーバーはこの年に権威主義的な父親と大喧嘩をしてしまう。激論の末、父親は息子に批判されたことがショックで旅に出るが客死、ウェーバー本人は精神的な疾患を患うことになる。その後ウェーバーは療養生活を余儀なくされ、1903年には大学を正式に退職している。

しかし1904年には重要な二つの論文、「社会科学および社会政策的認識の『客観性』」および「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(略して「プロ倫」)の前半が公刊される(後半は翌年に出版)。ここで「客観性」とは、ある特定の観点の自覚とともに構成される思考と論述の一貫性、として定義されるものであり、当時としては斬新な主張であった。また、名高い論文「プロ倫」においては、カルヴィニズム以降のプロテスタントたちの自己救済行為、すなわち天職への奉仕と禁欲というものが、歴史的にはその意図せざる結果として、中産階級の勤勉精神や、徹底した利潤追求と簡素な生活に基づく資本蓄積をもたらした、と論じられる。つまり資本主義は、人々の欲望が増大したことによってではなく、禁欲的な人たちの信仰から生じた、というわけである。もっともウェーバーのみるところ、現代の資本主義は、もはや資本主義の精神たる「勤勉の美徳」を失っており、私たちはいわば「鉄の檻」のなかで、「精神なき専門人、心情なき享楽人」として生きる無価値な人間にすぎないという。これはかなり痛烈な批判だ。

 ウェーバーはその後、病を多少患うこともあったが精力的な活動をつづける。その研究全体を見渡すならば、二つの主要業績がある。一つは『宗教社会学論集』であり、この中から『プロ倫』のほか、『古代ユダヤ教』『宗教社会学論選』『儒教と道教』『ヒンドゥー教と仏教』などが邦訳単行本化されている。もう一つは大著『経済と社会』であり、これには『社会学の基礎概念』『支配の諸類型』『法社会学』『支配の社会学I, II』『宗教社会学』『都市の類型学』などが含まれる。この他に『学問論集』は、社会学の近代科学化に貢献した驚異の達成である(邦訳では『社会科学の方法』などを参照)。ウェーバーを貫いている基本姿勢は、近代合理主義の特徴を多角的に捉えながら、時代を背負ってこれと対決する、という点にあるだろう。社会学の始祖にして独創的な理論体系を築いたその豊富な知見は、いまだ乗りこえがたい学問的地平を築いている。